オスマントルコ帝国400年の歴史!Topkapı Sarayı(トプカプ宮殿)とハレム

1453年、征服王メフメット二世は、陥落不可能とされていたコンスタンティノープルを落とすことに成功。あまりにも長く続いたローマ帝国の歴史にピリオドを打たせました。その7年後の1460年にトプカプ宮殿が建てられ、1856年にドルマバフチェ宮殿に移るまで約400年にわたって、ここトプカプ宮殿は、歴代の皇帝(スルタン)の居城でした。増築や改築を重ね続けた歴代のスルタンは、どういうお部屋でどんな暮らしをしていたのでしょう?日本で販売されている、どのガイドブックよりも詳しく解説します!
長い記事です。1ページ目:博物館入口までと外廷エリア、2ページ目:皇帝と家族の内廷エリア、3ページ目:ハレム。お好きなところからお読みください☆

※この記事は、トプカプ宮殿公式HPに基づき作成しています。一部、日本で発売されているガイドブックと内容や日本語訳が異なることがあります。

 

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イスタンブールの歴史を簡単に

イスタンブールが「帝国の首都」であった期間は、330〜1922年の間、およそ1600年間。ローマ帝国(330-395)、ビザンチン帝国(395-1204、1261-1453)、ラテン帝国(1204-1261)、オスマン帝国(1453-1922)と4つの国にまたがります。1923年、トルコ建国の父ケマル・アタテュルクは、首都をアンカラと定めトルコ共和国を建国。首都ではなくなった今も、ヨーロッパと中東をつなぐ重要な都市であり続けています。

 

トプカプ宮殿の歴史


コンスタンティノープルを征服した皇帝メフメット二世がまず最初に建てた宮殿は、現在のベヤズィット地区、イスタンブール大学がある場所にありました。

イスタンブール大学

1460年~1478年までの間に、メフメット二世は、新宮殿(Yeni Saray)建築に着手します。征服王が最初に建てたのは、宮殿ではなく、Köşk(キオスク)でした。このキオスクは現在、装飾タイル博物館として現役で利用されています。

装飾タイル博物館

新宮殿が完成したのは、1478年頃。古い宮殿は「旧宮殿(Eski Saray)」とよばれ、ハレムのみが旧宮殿に残されます。トプカプの名前の由来は、第22代皇帝マフムト一世によって名付けられたそう。ビザンチンの城壁と礼砲の近くにあったTopkapusu Sahil Sarayı(トプカプ海岸宮殿)が火災で焼失した時からのようです。三大陸を手中におさめた大帝国のスルタンの居住は、19世紀まで続きました。増築と改築を重ねた居城は、1850年初頭、式典開催等に支障をきたす等の理由で、ボスポラス海峡沿いにある、ドルマバフチェ宮殿に移ります。

ドルマバフチェ宮殿

第一次世界大戦を経て、1922年に王制を廃止、オスマン王家は事実上の国外追放となり、共和国制へと移ります。1924年4月3日、ケマル・アタテュルクによって、トプカプ宮殿とドルマバフチェ宮殿は、博物館として一般開放されることになったのです。

 

トプカプ宮殿の見どころ

宮殿に従事する人々は、外廷(ビールン)と内廷(エンデルン)2つの組織のいずれかに従事していました。東京ドーム15個分に相当する70万㎢の敷地内には、国政用の建物、皇帝の住まいとなる宮殿、使用人の住まい等があり、中庭の中にそれらの建物を配置しています。これらは、4つのセクションに門で区切られています。

皇帝の門

皇帝の門から見て、最初の中庭は公共のスペース、次の中庭は政治的なスペース(外廷)、三番目の中庭は皇帝の私的なスペース(内廷)、四番目は皇帝のための庭園とハレムエリアでした。

第一の中庭(公共エリア)

第一の中庭

皇帝の門をくぐって最初の中庭は宮殿内で唯一、一般市民等が入ることが許された場所です。木々が生い茂る公園のようになっていて、一番広い庭であったことから、毎週金曜日の閲兵式などの式典にも利用されていました。

水位調製施設

皇帝の門を背後にして、向かって右側には、エンデルン病院、衛兵詰め所、パン屋、研究所、水道関連施設があります。

アヤイリニ聖堂

向かって左側には、第一の中庭で最古の建物、アヤイリニ聖堂とレストランなどがあります。市民等が意見を上申できる場所として、Deavi Kasrı(デアヴィ・キオスク)がありましたが、今はその跡のみです。
※第一の庭は、入場無料ですが、アヤイリニ聖堂入場には別途入場料が必要です。ユスティニアヌスとテオドラにご興味がある方はぜひ。お知りになりたい方は、北川景子さんの『悠久の都 トルコ イスタンブール~二人の皇后 愛の奇蹟を辿る』がとても詳しく解説されています。ぜひご覧ください。

第二庭園(外廷エリア)

送迎の門

第二の庭は、ここ送迎の門から先にあり、博物館はここからです。送迎の門右手にあるブースでチケットを購入します。送迎の門入って右手には、オーディオガイドのレンタルがあります。カラーマップもいただけるので、ガイドがいない場合はレンタルがおすすめです。

Wikipedia

この門に区切られたセクション内は、「行政の広場」で、皇帝や大宰相・高官たちが行う政治的施設と、宮殿内の食を賄う大きなキッチン、財務省がありました。即位式や祝祭等の国主催の行事・式典は、この広場で行われています。3か月に一度、この庭でイエニチェリ(オスマントルコ軍)の給与支払いも行われていました。給与支払い時には、豪華な食事とスープが振舞われるのですが、もし兵たちが手を付けなかった場合、それは国に対する不満の現れ。うまくいっていないことを示したそうです。各国の大使は、この先にある謁見の間に通されるのですが、この中庭に集い祝う様子を見た各国大使は、帝国の軍事力を見せつけられました。また、豪華な細工や飾りのある建物で国の豊かさを見せつけられる仕組みだったようです。

正義の塔(御前会議の場)

正義の塔は、イスタンブールのあらゆる場所から見ることができる塔で、オスマン王家の威厳を示す高さで作られたものです。この場で行われる国政会議の正義と公正さを示す意味があったのですが、町中で起きる暴動や異変を感知するためにも、効果的な塔でした。

この建物内で、大宰相を中心とした高官(パシャ)らが会議を行います。皇帝は直接その場には参加せず、上階にある格子状の窓から覗き見ていたのだそう。皇帝は、ハレムからこの格子窓がある部屋までこっそりと来ることができましたが、高官たちはそれを知っていたため、御前会議はまじめに執り行われたそうです。

午前会議は、週4回のペースで行われ、重要な事項については議事録に記されました。

財務省(武器博物館)

「正義の塔」の隣には、レンガ色のドームがある建物があります。オスマン帝国のお金や貴重品類はここに保管されていたそう。メッカへの奉納金や、皇帝即位に伴う民への祝い金、イエニチェリへの給与支払い分もここから出していたようです。現在は、世界有数の武器博物館となっています。

宮殿のキッチン


石畳の長い通路、煙突のあるドームが特徴的な建物は、宮殿内での数千人分もの大量の食事を賄うためのキッチンです。1451年から1481年の間に建てられ、皇帝スレイマンによって増築されましたが、1574年に火災にあい、建築士ミマール・シナンによって再建。10の煙突つきドームがあり、インペリアルキッチン、ロイヤルキッチン、製菓ハウスの3つにわかれています。製菓部門だけで6人のシェフと100人の見習いがいたそうですよ。


スルタンへの食事は、常時60種類以上が用意されていました。毒見はまず料理人が自ら行い、次に内廷の味見係が行ったとされますが、すべてについて行っていたわけではないようです。今は、陶器博物館となっていて、日本から贈られた陶磁器も展示。最近リニューアルされて、厳選された所蔵品を展示するようになり、中には、宮殿内で使われたカトラリーも展示されています。

ズリュフリュ警備隊の詰所

この建物には、ズリュフリュ警備隊の詰所兼宿舎でした。ズリュフリュ警備隊は、トルコ語で「毛の番人」の意味を持ちますが、長い毛のついた頭飾り、長い襟の制服であったことからこの名前がついたのだとか。宮廷内の警備の他に、戦の際には進軍が容易にできるよう、道を開拓することや、コーランを唱和するなどの役目があったとされます。

画像:文化観光省

建物は15世紀頃に建てられたもので、中には警備隊用のジャーミィをそなえていました。2階建てになっていて、ベテラン兵は上階、新人は下階に寝泊まりしていました。

第二の中庭にはこの他にも、スルタンの馬小屋、モスクとハマム、記念碑があります。

次ページは、スルタンのプライベートエリアです。

 

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