
アルメニア人の住んだヴァンが持つ悲しみの歴史
公開日 2025年7月28日 最終更新日 2025年7月31日
概要
トルコ各地を記事にしてますが、東部を代表する大都市ヴァンを書かなかったのは、その悲しい歴史のため気が重かったからです(:_;)。

現在のヴァンは、人が親切で明るく、海のような澄みきった湖と、可愛い猫がいる、とても素晴らしい街です。たとえ残念な歴史的背景でも、知って旅すると、アクダマル島の教会や城塞での観光が感慨深いものに変わるかもしれない、と思い書くことにしました。

さらに詳しい情報はWikipediaで〈アルメニア人大虐殺〉をご覧ください。
アルメニア人の文明の中心地だったヴァン湖周辺

アルメニアの遺跡といえば、世界遺産カルスのアニ遺跡が思い浮かびますが、アニのほかに、もう一つのアルメニアの王朝が栄えたのが、このヴァン湖周辺でした。

特に、ヴァンに浮かぶアクダマル島やその周辺地域は、アルメニア人の居住地として長く栄え、宗教・文化・政治の中心地の一つでした。

ヴァン城塞は、この王朝が築いた都市のものです。 王朝が滅ぼされた後も、アルメニアの人々はこの地に残りました。
しかし残念ながら、1915年頃、アルメニア人大虐殺が起こり、当然、ヴァン湖周辺地域も深く関わることになります。
アルメニア大虐殺とヴァンの関係

オスマン帝国は戦争中、アルメニア人がロシアと通じて反乱を起こす可能性があると疑っていたようです。今もそうですが、トルコは多民族国家でもあるので、一つの国家やコミュニティを築けない民族であるとした場合、反乱分子として対処する傾向にあります。

1915年春。ヴァンでは、アルメニア人住民がオスマン軍の迫害に対抗して防衛を開始。これは「ヴァンの反乱」と呼ばれます。
オスマン政府はこの反乱を口実に、アルメニア人全体を「脅威」とみなし、アルメニア正教からカトリックやイスラム教に改宗をしない者たちへ、強制移住を命じました。
しかしこれが、実質的には「死の行進」といわれる、虐殺の引き金になるものでした。多くの人が飢えや病気、襲撃で命を落としました。その数は60-80万人ほどではないか、とされています。
長くアルメニア人が居住していたヴァン湖周辺も当然、この強制移住や殺害の対象となり、地域の人口構成が大きく変化した、とされます。

現在のヴァンはクルド人が多く住むトルコ領ですが、アルメニア人の歴史的記憶が刻まれた場所として、国際的な議論や追悼の対象にもなっています。
毎年4月24日は「アルメニア人ジェノサイド追悼記念日」とされ、世界中のアルメニア人がこの地を含む犠牲者を追悼しています。

アクダマル島のアルメニア教会は長いこと放置されていましたが、現在は修復を経て博物館として公開され、年に一度のミサも開かれるまでになっています。
トルコ政府の見解と現代への影響
トルコ政府はこの出来事を「戦時下の混乱による犠牲」とし、計画的なジェノサイドではないと主張しています。 一方で、アルメニア側や多くの国際的な歴史家は、組織的な虐殺だったのではないか、と見ています。

特にヴァンの反乱は、トルコ側にとって「アルメニア人が国家に反旗を翻した証拠」とされることが多く、虐殺の正当化に使われることもあります。 こういった背景から、ヴァンはアルメニア人虐殺の「引き金」として語られることが多く、現在でもアルメニアとトルコの間の緊張の象徴です。


近年、アルメニアとアゼルバイジャンの紛争にトルコ軍が関与していったのも、アゼルバイジャンが同系民族であること以外にこういった歴史的背景もあるようです。
ヴァンやカルスなど、トルコ東部およびアララト山は、アルメニア人にとって「失われた故郷」であり、文化と悲劇が交差する場所です。

ヴァン城塞に登り、ヴァンを見渡した時。湖畔や道端に当時並んだ多数の遺体を想像したり、ハタイのサマンダーにあるアルメニア人の村を思い出したりして、殺す側も殺される側もいいことなんて一つもないのに、と悔し泣きしたのを思い出します。

世界平和と、エゴむき出しで幼稚な戦争が1日も早くなくなることを、ただ祈るばかりです。